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1  僕、稲葉樹の家の向かいには、居辺織葉という同じ高校に通う同級生が住んでいる。  親同士は近所付き合いかよく玄関先で話し込んでいたりするのだが、僕と居辺織葉は殆ど接点がなかった。  小学校も中学校も同じ公立校で、クラスも何回か同じクラスになったことはあるが、言葉を交わしたことは殆どない。幼馴染と呼ぶには、あまりに関係が希薄だった。  だけど、僕は小学校の頃から彼女に密かに好意を抱いていた。  好意を抱いた理由はなんのこともない、ただ子供の自分には隣に住む同学年の異性ということがそれだけで運命的なものに思えていたし、そう思って彼女の振る舞いを眺めていると、彼女の異常なまでの口数の少なさも、ダサい私服も、少し傷んだセミロングの髪の毛も、全てが愛おしく思えて来るのだ。  とはいっても僕の好意を彼女に伝える気はない。どうにも彼女は僕の事を避けているふしがある。気付かれないようには努めていたつもりだが、ずっと彼女のことを眺めていることがバレていたのだろうか。  他人から向けられる好意が、全て心地よいものであるとは限らない。全ての好意が善意で成り立っているとは限らず、それも避けている相手からの好意なんてものは、彼女の心の平和を脅かす恐怖の対象にしかならないだろう。  避けられているというのが僕の自意識過剰の勘違いである可能性はあるが、何にせよ、可能性としてそういう懸念がある以上、僕は彼女にアプローチをかけるつもりはない。僕ができることは、彼女が幸せに人生を過ごせることを遠くから祈っているだけだ。  だから、委員会だって本来は彼女とは別のものを選ぶつもりでいた。だが委員会を決めるHRがあった日、僕は風邪をこじらせ、休んでいるうちに彼女と同じ図書委員になっていた。  彼女の心中を考えると、申し訳無さでいっぱいだった。  だから委員会の仕事でも必要以上の会話はしないようにするつもりでいた。  図書委員では図書室の蔵書管理と貸出を、クラスごとにローテーションで任される。この学校は三学年二十一クラスなので、おおよそ月に一回ほど仕事が回ってくることになる。  そして今日、初めて図書委員の仕事を任されることになっている。  授業の合間の休み時間、周囲に悟られないように注意を払いながら、斜め前方の彼女の席に目を向ける。  彼女の周囲に彼女の友人らしき数人の女子生徒が集まっているが、彼女自身は口を開く様子はない。  僕もあまり快活な方ではないと思うが、それに比べても彼女の寡黙っぷりは異常だった。  彼女のクラスでの様子を見るに常に一人でいるということではなさそうなのだが、現代文や英語で教科書の文を読ませられる以外で、彼女の声をほとんど聞いたことはない。  言葉を発しないにも関わらず、彼女の周囲には友人がいる。そして、友人の話を聞きながら彼女は微笑む。そんな光景をみて、僕の口元も緩みそうになる。  あぶない。周囲に僕のことを注意深く見ている人間なんて居るとは思えないが、流石にニヤけていると不審がられる可能性がある。この前も放課後窓から彼女が自転車で帰るところを眺めていたら、クラスの女子に何笑ってんの的なことを聞かれたことがある。  こんなことがバレたら彼女に恐怖を与えてしまう。本当はこんなストーカーのような視線を向けるのも控えたほうが良いのかもしれない。  だけど、我ながら身勝手だが、それは耐えられなかった。中学以降の僕の人生の楽しみの大部分が彼女を遠くから眺め、思いを馳せることだった。  いつか、いやもしかしたら僕の知らない所でそういうのがあるのかもわからないが、せめて、彼女自身にとって大切な人が現れるまで。本当に諦めるしかないと実感してしまうその日までは。  昼休み、これから図書委員の仕事がある。教室で友人の話に耳を傾ける居辺織葉を横目に席を立つ。居辺織葉は真面目な生徒である。委員の仕事を忘れているということはないだろう。彼女に声をかけた方が良いのか少し迷ったが、声はかけずに教室を出た。  職員室で鍵を受け取り、図書室に向かう途中、同じく図書室の鍵を取りに来たのであろう居辺織葉と対面する。  目が合うと赤面してしまいそうだったので、僕は顔を斜め下にそらす。 「鍵なら、取ってきた」 「……」  居辺織葉は、一切口を開かずに、後ろを付いてくる。  居辺織葉と共に昼休みを過ごせる嬉しさと、僕と過ごすのは本意ではないだろう彼女への申し訳なさが混じって胸が痛い。  図書室の鍵を開け中に入り、カウンターの内側においてあった椅子に腰掛ける。一呼吸おいて彼女も隣の椅子に座る。  この学校の図書委員の主な仕事は昼休みと放課後に、図書室の蔵書の貸出、返却の受け付けをすることと、返却された蔵書を所定の位置に戻すことだ。  周囲を見てみるとカウンターの脇に蔵書が幾つか置かれていた。  貸出履歴と照らし合わせてみるとどうやら昨日返却されたもののようだ。  昨日の当番、仕事手抜きしやがったな。  まぁ、本の数冊を戻すくらい大した手間ではないので良いとしても、その間、居辺織葉にカウンターを完全に任せてしまっても良いのだろうか。  こんなことを考えるのは失礼かもしれないが、彼女の普段の無口っぷりからきちんと受付ができるイメージがつかなかった。  雑用を押し付けるのは少し申し訳ない気もするが、彼女一人にカウンターの受付を任せるというのも心配だったので、彼女に返却された本を棚に戻してもらうことにしよう。 「…これ、戻してきて」  もっとまともな頼み方があったかもしれないが、彼女と言葉を交わすということを意識すると、とても恥ずかしくなり自然とぶっきらぼうな言い方になってしまう。 「……」  彼女は黙って本を受け取ると立ち上がり、奥の本棚へ向かっていく。  しばらくして彼女が戻ってくるが、その間に貸出返却に来る人は一人もいなかった。  これだったら僕が戻しに行けばよかったと少し後悔する。  結局、昼休みには本の貸出も返却もなく、二人で無言で図書室の椅子に座ってるだけだった。  「暇だね」とかなんか色々居辺織葉に声をかける妄想をしてたので僕は別に暇ではなかった。  彼女はどうだろうか。僕が少しは気の利いた台詞が言える人間なら良かったのだろうか。それとも僕に話しかけられるのも嫌なくらい僕を嫌っているのだろうか。  昼休みが終わり、図書室を一周し人が残っていない事を確認して図書室を出る。 「鍵、戻してくるから」  僕は、先に教室に戻ってもいい、といった意味合いで言ったつもりだったが、居辺織葉は最後まで律儀についてきていた。  まだ放課後にも仕事がある。僕はたとえ言葉を交わせずとも、彼女を見ていること、彼女と同じ空気を吸えることは何よりの幸福だったが、それは僕の都合だ。  彼女は、僕を避けている。  もし僕の存在が、僕と同じ時を過ごすことが彼女にとって重荷になっているとしたら、耐えられなかった。  職員室に鍵を戻し、教室への帰り際、僕は彼女の方へ振り返る。一瞬目が合い、僕は視線をそらす。 「仕事、多分一人でも大丈夫だし嫌なら放課後は来なくていいから」 「……」  彼女はいつもの様に黙って俯いていた。  もしかしたら、受け取りようによっては傷つくようなことを言ったかもしれない。午後の授業中、そんな風に考えて息が詰まったが、僕がどのように振る舞った所で後悔することになっているように思えた。

2  帰りのHRが終わり、職員室から図書室の鍵を借りてくると、居辺織葉は図書室の扉の前で待っていた。僕はあんなことを言ってしまったので帰ってるものだと思っていたが、考えてみれば当たり前だった。  彼女のことは性格は語れるほどよく知らないが、傍から見える限り彼女は真面目だったし、人に仕事を任せて一人で帰られるような神経の太い人間にも見えない。  成績も、僕はわざわざ廊下に張り出された成績上位者の一覧から彼女の名前を探したので知っているが、去年の最後の考査では学内上位5%には入る成績だった。それなりに優等生であると言えるだろう。 「……」  結局僕が昼休みの終わりに言った言葉に意味はなかった。むしろ、彼女の気力を無駄に削いだかもしれないという点で、言わないほうが良かったと言える。  何か言い開きの一つでもしようかとも考えたが、これ以上口を開いても失言ばかり漏らしてしまうだろうと思い、黙っていることにした。  昼休みは図書室を利用する生徒は殆どいなかったが、今は室内に数人の生徒が見受けられる。  とはいえ、図書を借りに来る様子は今のところなく、ただ待機するだけという退屈な時間が続く。尤も、彼女と会話を弾ませる妄想をしていた僕には有意義な時間だったが。  ふと居辺織葉の方に目を向けると、彼女は紙のブックカバーに包まれた文庫本を読んでいた。  僕は彼女の読む本が何なのか気になったが、そんなことを聞いて彼女の読書を邪魔するのも本意ではないので、空想の中で聞くにとどめた。  結局その日の仕事は図書室の利用時間が終わる直前、一件貸し出しの受け付けをしただけだった。  彼女は横で本を読んでいただけだ。  別にサボっているとかそういうことを言いたいのではない。昼間は僕がサボっていたし。ただ僕とこんな仕事をするために彼女の時間が潰されるのが少し悲しかった。  僕のせいで彼女の過ごす時間の質が下がっているのではないか。仮に僕が僕ではなく、もっと気の利いた言葉を喋れるような人間だったら、彼女ももう少し心地良く過ごせたのではないか。気づけばそんなことを考えている。  中に人が残っていないことを確認し、図書室を出て鍵を締める。 「鍵、戻してくるから。先帰っていいよ」  僕がそう言うと、彼女は無言で頷き昇降口へ向かっていった。

3  向かいの家には稲葉樹というクラスメイトが住んでいる。  小学生の時から同じ学校に通っていて、親同士も中が良かった。  彼は私を避けているようだ。といっても、その原因を作ったのは私だ。  小学生に上がったばかりの頃、私は彼と一緒に登下校していた。  私は無口だったため、ほとんど喋らなかったけれど、それでも毎日家の前まで迎えに来てくれた。  ある日彼はクラスメイトの男子に茶化されていた。 「お前女子なんかと一緒に歩いてて恥ずかしくねーのかよ!」 「別に。悪いことしてないし」  そんな感じでクラスメイトと口論していたように思う。  しょうもないことを言うなと同じ小学生ながらに思った。だけれど同時に怖かった。もしかしたら私のせいで彼がクラスメイトから除け者にされるかもしれない。  私は上手く人と話せないし、そんな私にかまって友達がいなくなるなんていうのは可愛そうだと思った。  だから私は彼と一緒に登下校するのをやめた。次の日から彼が家のチャイムを鳴らしに来る時間より早く家を出るようにした。  それから私は彼とほとんど口を聞いたことはない。  他のクラスメイトの話によると、それから彼は他の人ともほとんど人と口を聞かなくなっていったらしい。  私のした行動が、彼を人間不信にしてしまったのかもしれない、なんて思うのは自意識過剰だろうか。  何にせよ、彼は孤立した。私が彼と距離を置いたことには意味がなかった。彼は私を見捨てようとはせず、私は彼を突き放したという事実だけが残った。  中学校に上がってそのことを謝ろうと何度か彼に話しかけようと思ったことがあった。だが彼は私が近寄っていくとすぐその場を離れていった。  少し強引にでも話しかけられた機会はあったかもしれない。だけれど、私もなんて話しかければいいのかわからなかった。  何を言っても言い訳がましくなる。そんな風に思った。結局私は謝るより自分の体裁を気にしているのだ。  私は彼に避けられていると思っていたので、高校が同じだと知ったときは少し驚いたが、成績も近かったので進学先が被ったのだろう。  そして、二年に上がり、彼と同じクラスになった。  委員会を決める日、彼は病気で欠席していた。  部活に入っていない生徒が優先して委員会に配属されるので、彼は病欠しているにも関わらず勝手に図書委員に配属されていた。  私も所謂帰宅部だったので、委員会に入ることを余儀なくされた。そこで彼に謝るいい機会だと思い、同じ図書委員を選んだ。  だが委員会の会議のあった日も、図書委員の仕事のときも、結局彼に謝ることはできなかった。 「織葉は、好きな人いないの?」  クラスメイトで友人の結城由佳が話しかけてくる。  彼女とは去年から一緒のクラスで、体育の準備運動でペアを組んでからよく話しかけてくるようになった。 「いない…」  好きな人か。考えたことなかった。  私には今こうやって話しかけてきてくれる友だちがいる。だが、彼はどうか。  たまに他の男子に声をかけられていることはあっても、クラスで彼が笑っているところはまだ見たことがない。  もしかしたら、私が彼を避けてから、ずっとこうだったのかもしれない。 「じゃあ気になる人は?」 「……」  稲葉樹を気にかけている、という意味ではそうだと言える。だけど、これは多分好意ではない。  昔は好きだった気がする。でも、今あるこの感情は多分好意ではなく、負い目とかそういったものだと思う。  私が黙っていると由佳がはっとしたような顔をする。 「わかった、稲葉君だ」 「……」 「委員会も同じの選んだし今だって見てたもん。織葉わかりやすすぎ」  違うのだが、この感じだと否定しても多分聞く耳を持たないだろう。まぁ、別に誤解されてもどうでもいいか。 「私が仲を取り持ってあげよう」 「いやそれは…」  別に私自身は誤解を受けてもどうでも良いのだが、彼にそう伝わると困る。彼の気持ちをこれ以上踏み躙ってはいけない。これ以上自分のせいで彼を傷つけたくない。

4 「ねぇ、稲葉君」  名前を呼ばれた気がするが、同じ姓の別の人かもしれない。稲葉という苗字の人間は他にいただろうか。クラスにはいなかったはずだ。今は休み時間だからもしかしたら別のクラスから来ているかもしれない。そもそも聞き間違いである可能性がある。  いろいろな可能性を考慮した結果、安全策を取って呼びかけを自分へ対するものではないと判断し無視していると、後ろからぽぽんと肩を叩かれた。振り向くと女子がにこにこと笑っている。  女子にスキンシップを図られることは正直な所嫌ではないが、あからさまに喜んでも気持ち悪いし、実際いきなり馴れ馴れしすぎだと思うので、不愉快そうな顔を作ってみせる。 「おん」  呼ばれ慣れていないから変な返事をしてしまう。僕に声をかけたのは、休み時間、いつも居辺織葉と一緒にいる内の一人。名前はたしか、結城由佳だったはずだ。 「稲葉くんってさ、休日暇なときとか何してるの」 「…は?」  この女は今さっき初めて言葉を交わした男に、一体何の興味を持ってそんなことを聞くのだろうか。いや、順序は逆か。何にせよ、そんなことを聞かれる理由はない。いや、普通はそんなことを気にしないで話をかけるものなのだろうか。陽キャの生態を知らないので何とも言えない。 「……」  暇なときといえば、居辺織葉のことを考えている。だが当然そう答えるわけにもいかない。そんなことを言えば気持ち悪がられること請け合いだ。まぁ別に他の誰に気持ち悪がられるのはいいとして、居辺織葉の耳に入れば彼女にとってもいい気はしないだろう。不安を感じてしまうかもしれない。 「寝てる」  他にはゲームをしているか、インターネットでニュースサイトか動画でも見ているか、漫画か小説でも読んでいるかなのだが、突っ込んで聞かれても面倒くさそうなので、一番会話に発展性のない睡眠で会話を通すことにした。 「は?」 「寝てる」  あからさまに威嚇をしてきたので僕も動じない意思を見せつける。  互いにしばらく黙っていたが、急に彼女が吹き出す。 「いや、稲葉くんってさ」 「…?」 「織葉と似てる」  いや、多分似ていない。僕が勝手に彼女に憧れているだけだ。